ライブハウスに出てCDを出すためにこの4人になった

——tokyo pinsalocksの15年の歴史を振り返ってみたいと思います。年表によりますと2000年にバンド結成。これは大学の音楽サークルで集まったメンバーなんですよね?

Hisayo:東京ピンサロックス自体は、これより前に歴史があって、ギターがリエコ、ドラムがミホっていう前身バンド時代があったんです。それが最初にサークルで結成したメンバー。その二人が音楽以外の道に進むっていうことで辞めて、二個下の学年でサークルに入ってきたレイコが加入したんです。ギターのトモッチ!はメン募したんです。

Naoko:そう、スタジオとかにメンバー募集の紙を貼ったんだよね。

Hisayo:だからトモッチ!だけは、初めまして、って出会って。オーディションはしてないけど、ギターのプレイとかを見て。

Naoko:で、セッションしてね。

Hisayo:それで、Vo.ナオコ、G.トモッチ!、B.ヒサヨ、Dr.レイコになったのが、2000年。それが大学4年生の時です。

——2000年結成というのは、サークル内でなんとなく結成された年、というわけではないんですね。

Hisayo:そう。外のライブハウスでライブして、ピンサロックスでCDを出したい、そのためにこの4人になったので。なので、バンドのプロフィール的には2000年が一年目。

——ちなみに大学を卒業する際に、就職活動は?

Hisayo:…わたしは一回、就職したんです。サークルの先輩にベルトパンチの長沼さんがいて、長沼さんの“就職して安定した収入があるとバンド活動も精神的に安定して出来るよ”という教えが伝わってきて。それをマネしようと。

Naoko:そうなんや(笑)。知らんかった。わたしは母に電話したら「うん、別に就職しないのやろ。別にいいよ、あんたはそういうものだと思っとったから。好きにやりやー」って感じやったから。「じゃあ、音楽やるねー」って言って。

Hisayo:すごい心の広いお母さんやね。

Naoko:まぁね。でも高校まではめっちゃ厳しくて、例えばライブハウスで友達がライブやるから観に行くって言ったら「何時に終わるの」って聞かれて、ライブハウスにその時間きっかりに迎えに来るぐらいの感じだったから。でも東京に上京した時点で「もうすべて教えたつもりだから、後はあなたが自由にやりたいことをやったらいいよ」って。

——じゃあもう、大学を卒業したらバンドで生きていくと。

Naoko:うん。その時はそう思ってたよね。

Hisayo:もし何にも結果を残せずに2年とか経っちゃったら諦めよう、って話もしてたけど、大学を卒業した年の6月ぐらいに、前のマネージャーと事務所に拾ってもらった。けっこうすぐ。

Naoko:卒業して2か月で声かけてもらった。CD-Rでとりあえず音源を録ろうって、深夜パックのスタジオで一発録りやったな。そのCDを出しまーすって、出したその日にマネージャーと、ジュンスカ(JUN SKY WALKER(S))の宮田和弥さんが噂を聞きつけて、ライブに来てくれてて。新宿のWALLやったっけ。うちらがライブ終わって、ふーって一息ついてたら「なんかジュンスカが来てたよ」「ピンサロックスのライブが終わったら帰ったよ」って言われて、慌てて物販のところに行ったらマネージャーだけが戻ってきて、その初めてのCDを1〜2枚買ってってくれた。後日「宮田和弥が会いたいと言っているんですが」って連絡が来て、それでスタジオに行ったんだよね。

Hisayo:それから和弥さんの、プロデュースではないけれども、ちょっと面倒を見てもらいながら、シェイクハンドの事務所に入ることになって。で、わたしたちのファーストCD-Rが、すごくクオリティが良いからっていうことで、これをそのまま、うちのレーベルから出します、って。本当にそのまま、一晩で3曲撮ったのを。

Naoko:録り直したかったけどな(笑)。ジャケットも友達に頼んで作ったのをそのまま使って。本当にそのままやったよね。

Hisayo:それが10月にリリースされた「ペディキュア」なんです。

2001年「ペディキュア」発売時のアーティスト写真

——とんとん拍子ですね。

Naoko:このあと苦労が始まるんだけどね(笑)。

 

 

母に反対されてめっちゃ勉強した、それで文句は言わせない

——ちょっと遡って、お二人がバンドを組んだ時の出会いというのは?

Naoko:入学式の日だよね。ヒサヨは、髪が真っ赤でツンツンツンってしてて、すっごい短くてもう見えそうなミニスカートを履いてた。わたしは真っ黒星人だったから服が真っ黒で、髪型はツイストパーマ。で「なんか音楽、やる?」みたいな、もういきなり(笑)。

Hisayo:音楽サークルに入ろうって決めてたから。サークルに入ってなかったら出会わなかった。

 

Naoko:学部も違うからね。それまで自分はバンドをやったことがなくて、そこで初めて歌を始めるって感じだったから、やったことある人とやりたいなって思ってた。歌はすごく小さいときから大好きでずっと歌ってたんだけど、でもバンドを組もうとは思ってなくて、ソロで歌いたいなって思ってたんだけど、たまたまバンドサークルに誘われて、当時Charaが特に好きだったんですけど、CharaもYEN TOWN BANDをやってたし、あぁバンドっていうのもあるのかって。それでヒサヨがベースを今までもやってたっていうから、じゃあ一緒にやろうよ、って。そういう出会い。

Hisayo:サークル自体が男子ばっかりで女子の数が少ないから、ガールズバンドを組もうっていったら、それだけでメンバーが決まっちゃう。それで一年生のときは5人ぐらいでガールズバンドを組んで、それでサークルの中だけずっとやってて。楽しかったよね。

Naoko:うん。でもうちらも熱心にやってたから、女の子のわりにはちょっとずつ上手になっていって、調子に乗っていろんなコピーしたよね(笑)。

Hisayo:大学一年生の秋の学園祭の時に、コピーバンドなのに、大人の人(音楽業界の人)が観に来たんだよ。

——ちなみに東京ピンサロックスというバンド名は、どこで付いたんですか?

Naoko:どこで付いたんだろう?ミホちゃんにドラムが代わった辺りからかな。ちょっとオリジナルもやろうか?って言い始めた時に東京ピンサロックスにしたのかな。その頃は、ギターのリエコが作ってきた曲をやったりしてたんだよね。その当時はいろいろコピーもしたけど。

Hisayo:シーガル(SEAGULL SCREAMING KISS HER KISS HER)とか。チボマットとか、ガールズバンドのコピーをしてた。あとインディーズだとCatch-Upとか。

Naoko:Catch-Up、すごく好きでね。私たちが一番たくさんコピーしたかもっていうぐらい。で、ドラムがレイコに代わった時に、レイコがめっちゃレッチリ大好き!レイジ大好き!みたいなカンジで入ってきて、激しいのを叩きたいってカンジだったから、そこでミクスチャーっぽい、女の子ボーカル二人のミサイルガールスクートとか…

Hisayo:最近、再結成したの。めっちゃ観たいの!(笑)

Naoko:え!ヤバい!(笑)…スーパージャンキーモンキーとかをコピーし始めて。わたしはもともと可愛く歌いたかったんだけど、だんだんとガー!みたいになって(笑)。ラップも、ラップって何?ってところから始めて、がんばったよ。ヒサヨもね(笑)。

Hisayo:ピック弾きだったんですよ、大学入学当初までは。だけど、スーパージャンキーモンキーをやるようになってからは、指弾きになり、スラップをして、そこでプレイスタイルが全然変わっちゃって。

Naoko:ヒサヨはけっこう大学の時から引っ張りだこで、いろんなバンドでやってたんだよね。鍛えられたんじゃない?今とあんまり変わらなくて、4つぐらいやってたよね(笑)。

——元々いつからベースをやっていたんですか?

Hisayo:中2とか。最初からベース。バンドを組むっていうのが前提にあって、みんなでいろんなパートを取っていって…。

Naoko:残ったのがベースや(笑)。親に買ってもらったの?

Hisayo:うん、でも母にめっちゃ反対されたけど。とりあえず、学校で良い点取ればいいんでしょ、ってめっちゃ勉強した。それで文句は言わせないってカンジで。だから大学も行けたんですけど。東京に行ってバンドやりたい、っていう風に言ったら反対されるから、大学に行けばいいんでしょ!って言って。でもまさかでもナオコと、ここまで長く一緒にやるとは、大学に入った当時には思ってないですよ。サークルの中だけのバンドかなって。

Naoko:そうねぇ。

Hisayo:自分も音楽をやりたいって大学で上京したけど、地元で一緒にバンドをやってたボーカルの女の子も上京してきて。その子は音楽の専門学校に行ってて、その子と一緒にバンドやろうって最初は思ってたから。でもその子はソロシンガーになるって別の方向に行っちゃって、海外に行くって話になって。そういう運命だったんでしょうね。

 

時間がかかる曲作り。スタジオ代で家賃が払える!?

——東京ピンサロックスが活動を始めた当時の音楽シーンは?

Hisayo:インディーズブームがあって。CDが付録で付いてる「Indies Magazine」があったりとか。

Naoko:いまだに時々言われるもんね、高校生の時にそれでピンサロックスを見ました、みたいなことを。

Hisayo:おんなじような存在のガールズバンドって、けっこう仲間としてはいたと思う。対バンしたら全部そういうバンドが揃ったぐらい。

Naoko:でも事務所に声をかけられる前は、そんなにいなかったよね。覚えているのは、高円寺GEARで、SHAKALABBITSと一緒になって、仲良くやっていこうね、って言ってたら2〜3ヵ月後にはもうドーン!ってテレビに出てて(笑)。

Hisayo:対バンした時は、まだ手書きでSHAKALABBITSって書かれたCD-Rだった。

Naoko:ライブって6曲ぐらいやるじゃないですか。うちらとしてはこの6曲しかない、っていう6曲だったんだけど、CD-Rを買ってってくれたマネージャーは、いっぱいある曲の中の6曲を今日やったんや、って思ってたみたいで。だからそこからうちらの苦労が始まるのよね(笑)。蓋を開けてみたら、全然曲ないやん!って。

Hisayo:だから事務所に入ったけれど、次のCDを出すまではけっこう時間がかかって。

Naoko:大変だったね。曲作りがまだ全然、自分達の中で流れができていなかったし。基本的に、セッションで曲を作ろうって感じだったから、そんなすぐにまとまるわけがなくて。

——曲作りはどなたが主導だったんですか?

Hisayo:全員で。スタジオで。

Naoko:それぞれのパーツをそれぞれが作るっていうカンジだったよね。

Hisayo:何個かのフレーズを持ち寄って。それ以外の方法で作れなかったよね。

Naoko:前にいたギターの子が曲を作りたいタイプだったんだけど、その子が抜けたら、さぁどうしよう?みたいなね。

——歌詞は?

Naoko:歌詞はずーっとわたしが書いてて。曲が出来て、最後に歌だったよね。時間かかったよね〜。だってさ、スタジオ代で家賃が払えるって言ってたよね。だって週3で3〜4時間とか入ってた時あったもん。

Hisayo:その時は一緒に住んでたんですよ、うちら。更新のタイミングもあって。わたしも就職したけど、すぐ辞めたんで。それでお金が無くなって。

Naoko:一緒に住もうって。

——会社を辞めることに躊躇はなかったんですか?

Hisayo:いやー、事務所決まったらすぐ辞めようって思ってた。就職して上手くやっていくっていうより、本当はバンドだけをやりたいけど働かなくちゃいけない、っていう気持ちだったんで。これでデビューできるんや!って勝手に思っちゃって。…もうライブの日に休むのが、大変なんですよ、社員だと。リハとかも仕事が終わった後にやってたんで。仕事場にベースを持って行って、いちいち持ち込み証を書かなきゃいけないし、そういう手続きをして。メンバーにも、一人だけ働いているからって言い訳できないと思ったから、絶対にしっかりやっていくとか、疲れたところを見せないとか。人一倍やっていこうって気持ちでやってたから、へとへとの半年間だった記憶がある。だから、これでやっと辞められる!って思って。ツアーとか決まったら絶対に無理だから。事務所の話で、ゆくゆくはツアーとか組んでいくよって話だったから。

——そして本格的に活動がスタート。

Hisayo:時代がミクスチャーブームだったから、そこにうちらもシーンに入って行かなきゃ、っていうカンジで、最初のCD『ペディキュア』を出してから、いろんなライブハウスに顔を出して、とりあえず東京ピンサロックスっていう名前を売ろうって。その半年ぐらいでめちゃめちゃ広まったよね。自分達もがんばったし。

Naoko:そうだね。そのシーンの上の方にいる人達に行きついたら、わりとガールズバンドが少なかったんで、可愛がられやすかった。すぐイベントなんかに呼んでくれたりとか。

Hisayo:入り込めたよね、スルーって。それでうちらの『ペディキュア』のレコ発を新宿アシベホールでやった時も、当時そのシーンでけっこう成功していた人達と共演できて。

Naoko:ピンクフラミンゴMGとラウンドスケープだ。

2003年 Bleachとのカップリングツアーファイナル@新宿ACB

Hisayo:うちらは、まだ本当にペーペーだったのに。急に周りが、東京ピンサロックスをめっちゃ聞いたことがある、って雰囲気になったよね(笑)。

Naoko:その当時からいろいろ勘違いが生まれて、ロリータ18号とか、その辺と同じ世代、みたいに見られるようになってたよね(笑)。名前を聞いたことがあるから、って。まだちょっとしかやってないのに、って思いながらね。で、曲作りで次のCDが出るまでがけっこう大変で、でも2003年にミニアルバム『STAY HERE』が出せた時に、もうそこからはワーッといろんな話が舞い込んできて。

Hisayo:この年が飛躍の年で、ライジングに出たり、SONS OF ALL PUSSYSっていうL'Arc-en-CielのギターのKenさんのバンド主催のイベントに呼ばれて、わりと大きなところでバンバーンとやらせてもらったり。ラルクファンの中でもけっこう知られたし。

Naoko:後から知ったんだけど、HYDEさんがファンしか読めないブログで、ピンサロックスのことを褒めてくれたらしく、それでけっこう反響があったっぽいですね。

Hisayo:テレビも出たし、雑誌もファッション誌とかにも出させてもらったし。ピンサロックス特集ページも作ってもらったし。けっこう大きな打ち出し方をしてもらった、っていう年だった。

Naoko:2002年がうちら、めっちゃもがいてたからね。

Hisayo:それがここで花咲いたっていう。で、このカンジが2004年のミニアルバム『バブルガール』の時まで続くんですよね。ここのレコ発のツアーファイナルの初ワンマンを渋谷BOXXでやった。2004年4月。ここまでがけっこう飛ばした感じだった。そこで一段落するよね。時代も。うちらがミクスチャーシーンに出て行ったのが、けっこう終盤で、ブームが終わりかけみたいなカンジで、そういうバンドが減っていって。これをずーっと続けていくのは難しいなって時代になってきたんですよ。

Naoko:この頃になると、FLOWとか、ORANGE RANGEとか、RIZEとかが、そのシーンで後に有名なところに行った人達ってカンジかなぁ。

Hisayo:解散していく方向になったり、そういうイベントがどんどん減ったり。うちらも自分達のモードじゃなくなったから、ここから変わっていかないとな、っていう。

 

ミクスチャーの、その次どうしよう?と作ったお蔵入りの曲

2003年 RISING SUN ROCK FESTIVAL 楽屋前にて

——この当時のピンサロックスのホーム的なライブハウスは?

Naoko:渋谷Cycloneかな。多かったよね。

Hisayo:Cycloneと三軒茶屋HEAVEN'S DOOR。でさ、オールナイトのイベントが多かったよね。

Naoko:カウントダウンのイベントみたいなこともやってたし。

Hisayo:ゴールデンウィークも必ずあったし。

Naoko:あとこの時代はさ、ツアーも多かったよね。Bleachとまわったツアーはけっこう長かったよね。20本近くやったよね。4連チャンとかあったし、一週間ぐらい帰ってこない時あったよね? その最後辺りに、山嵐のレコ発ツアーのサポートとかやったりしたんだね。それが最後だね、きっと。

Hisayo:それをやり切ったあとに、どうしようか?ってなって、うちらの原点を見つめ直した。やりたかったことって何だったんだろう?って。

 

Naoko:あ、その頃にちょうどメジャーデビューの話がきて、けっこうお金かけてプロデューサーもついて、かなりの期間で曲を何十曲も書いて、これはボツボツボツってやり取りがあって、その中で2曲が決まってレコーディングして。最近聴いたけど、すごく良い曲なんですけど。

Hisayo:渾身のね。でもお蔵入りしちゃったんです、メジャーの話が流れちゃったから。今こういうバンドがあったら売れそう!みたいなカンジの曲だったよね(笑)。うちらはその当時は周りに大人がいっぱいだったし、これがいいんや?ってよくわからなかった。

Naoko:何が答えなのか?っていうのが、手探りだったよね。

Hisayo:いろいろわからないまま作った曲だったけどね。

Naoko:後になって聴いてみたらすごく良いって思ったけど。年表には載ってないけど、2004年の終わりぐらいなのかなぁ。恐らくね。

Hisayo:ミクスチャーを一旦おいて、その次どうしよう?って生まれた、メジャーに行くための曲。

——それはもうミクスチャーじゃなかった?

Naoko:じゃなかったね。すごい歌ものだったし。

2005年「rhythm channel」発売時の撮影風景

Hisayo:うちらはそういうの初めてだったし、こんなの演奏したことがない、っていうカンジでやって。でもメジャーに行けるならこういう音楽をやるしかないんだ、っていう。全然いい曲だったんだけど、その時は、あまり理解できてなくて、気持ちが乗らなかったなぁって。そこまでして作った曲たちが、リリースされないってわかったからその反動で、うちらだけでやりたい、やらせてください!ってなって、4人だけで合宿に行ったんだよね。

Naoko:その2曲ができたから、アルバムの曲を作ろうっていうんじゃなかったっけ?これ記憶違い?メインができたから、その他の曲を作ろうっていうのだと思ってた。ネタを持ち寄って、3日間ぐらいあったかな?山中湖に4人だけで合宿に行って、曲を15〜16曲、20曲近くあったのかな。曲のかけらがあったのを全部まとめて。歌詞も全部そのときにわーっとつけて。とりあえず作ったやつをマネージャーに、聞いてくださいって渡したら「これ良いやん!」ってまずマネージャーが認めてくれた。これなんじゃない?みたいな。じゃあもうこれで出そうってなって出来たのが、2005年10月にリリースした1stフルアルバム『rhythm channel』。わたし的にピンサロックスの中でも『rhythm channel』っていまだに聴きたくなるし、すごく思い入れのあるアルバムだなぁって思う。

Hisayo:長く時間をかけて作れた記憶があって、自分達で作れたっていうか、レコーディングもすごいじっくりできて、この曲だけはここで録ろうとか、知り合いのスタジオでやったりとか。

Naoko:そうだね。この人ピアノ弾けるからっていきなり弾いてもらったりとか。なんかそういうお遊び的なのもいっぱい入ってるしね。

Hisayo:それがけっこう自由に作れたなぁっていう、大事な一枚。今の"tokyo pinsalocks"の音楽性の原点になるような。

Naoko:13曲入りやったっけね。うん。けっこう長い。

 

ミクスチャーの波に乗ったけど、「こっち」のわたし達もずっといた

Hisayo:でもここがけっこう分かれ目だったりした。それまでのファンの人にとったら、音楽性がすごく変わってるから、反応が顕著に出た。セールスがグッと落ちたんです、正直。

Naoko:いままで(拳あげて)こういうカンジがいいって思ってた人達が、あれ〜?そういうカンジになっちゃたの?みたいな(笑)。まぁかけらはあったけどね。『バブルガール』の中にも、その前の『STAY HERE』の中にも一曲ずつぐらい、その(ピコピコ系の)雰囲気の曲は実はあるんですけど、でもその部分がグワーっと広がったから、お客さんとしては、おっとっと、みたいな。たぶんミクスチャーのシーンが好きな人って、ピンサロックスだけが好きではなく、そんなカンジの音楽が好きって人も多かったしね。ていうのもあって、ワーって人が少なくなったよね、急にね。

Hisayo:って思ってたらそんなカンジで、ギターのトモッチ!自身も、こっちの音楽があんまり好きじゃなかった(苦笑)。

Naoko:さっき言った合宿の時から、もうトモッチ!のギターのフレーズが出てこない感がすごくあって。ピンサロックスでは、自分のパートは自分でやるっていうのがあったのに出せなくて、じゃあこういうカンジはどうだろう?ってお伺いを立てるみたいになっちゃってたよね、途中から。よくわかんないけど、ギターのことは。

Hisayo:まぁそこで話をして、うちらはこういう音楽性でいきたいからっていうことで、それでじゃあトモッチ!は無理だね、っていう。

——お二人の中では音楽性の変化は問題なく?

Naoko:行けたんだよね。

Hisayo:レイコも同じ流れで。共通して、ミクスチャーって激しいラウドロックみたいなのも好きだったけど、チボマットみたいな音楽が好きなのもずーっとあったから、それで、じゃあそっちに変更だねっていう話が早かった。トモッチ!だけはそれがなかったから。

Naoko:それまで自分達の中になかったものが、ここで急に出てきたのではなくて、最初にミクスチャーシーンがちょうど来てたから、そこでうちらは波に乗ったけれども、こっちのわたしたちもずーっといたんで。それが強くなったっていうか。っていうカンジだよね。その時、うちらいくつやったんだろう?年齢的にもそういうのがしたかったよね。それまでがけっこう男の中で、負けじと!みたいなのがあったから、等身大のっていうか、自分達が普段好きな音楽が、そのまま音楽になって出るカンジっていうか。そういうモードになったよね。で、トモッチ!が抜けたのが2006年で、その『rhythm channel』のレコ発中もずーっとね…(笑)。

Hisayo:今だから言えるっていう(笑)。すごい嫌そうだったよね(笑)。BO-PEEPと一緒にレコ発をまわってね、BO-PEEPにぼやいたりしてたね。

——メンバーが三人となったわけですけど、新しいギタリストを入れるとか、そういう話には?

Hisayo:ならなかったね。

Naoko:別に入れたくなかったわけではないけど、パッと出会うとかもなかったよね。探そうっていうカンジでもなかったよね。

Hisayo:やりたい曲にそんなにギターが必要じゃなかったのかも、もしかして(笑)。コードを鳴らすより、『rhythm channel』でもそうだけど、ギターに求めていたものが、単音でループとかシンセっぽい音だったから。

Naoko:ね。鍵盤でもいけそうなものが多かった。

Hisayo:サウンドも抜き抜きのカンジっていうか、ちょっと薄い音になって。それで三人でやろうって。さらに『rhythm channel』までずっと一緒にやってたマネージャーが、そのタイミングで辞めるってなって、うちらが三人になるっていうのと同時に、そこからバンドも活動的にも、もう一回ゼロからスタートぐらいの、本当の再スタートってカンジになったんだよね。

【インタビュー:下村祥子】

2005年 沖縄ツアーにて

 

【 第二期 (2006〜2012) 3人時代の"tokyo pisnalocks" 】に続く

 

 
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