3人で最初に出したCDはかなりスカスカの音になった

2006年 3人になったばかりの頃のアーティスト写真。
4人時代の写真を切り取った

——2006年、3人になった新生tokyo pinsalocksとして、再スタートが始まったわけですが。

Hisayo:最初は、うちらどこに混じればいいんだろう?誰と対バンすればいいんだろう?って。ブッキングも自分達でしなきゃいけないから、そういう事からもう一回やり直しで。フライヤーやHPにしても、今まで事務所が全部やってくれて、乗っかってるだけだったから。

Naoko:あんまり苦労せずにポーンってここまでやって来れたから、自分達で何かをしたっていうのはあんまりなかったんだよね。ここで初めて裏方の仕事も見て、そういうことを知る時期になった。音楽的にも、それまでミクスチャーで、ワーってとにかく音がいっぱいっていうカンジから、ギターがいなくなったこともあって、3人で最初に出したCDはかなりスカスカの音になったよね。

Hisayo:ライブハウスにしても、声をかけてくれるイベントにしても、ピンサロックスに以前のミクスチャーのイメージがあるから、とにかく「うちらは変わったんだ!」って知らしめなきゃ、わかってもらわなきゃ、って。今までと同じような所に誘われても出られませんよ、うちらは違うシーンに飛び込んで行きたいんですよ、っていうことをわかってもらうために、とりあえず、名刺代わりの一枚を作らなきゃ、と。ということで、一年間かけてサウンドの準備をして、2007年に『プルトニウムEP』を出すんです。

——その間のライブ活動は?

2007年 「プルトニウムEP」発売時のフライヤー画像

Hisayo:月イチとかでずーっとしてた。とにかく止まらないでやり続けようって思ってたから。3人で活動していくための土台作りのための準備期間に、そこで実はいろんな出会いがあった。その頃に近藤智洋さんに出会って、2006年の年末にGHEEEを結成したりとか。海外ツアーを組んでくれるような人物と出会ったりとか。まだ音源も出していないけど、3人のピンサロックスを面白いねって言ってくれる人も、ポツポツとその一年間で出てくるようになった。

Naoko:そうだね。

Hisayo:前のピンサロックスを知らない人が観て、良いやんって言ってくれたり、レーベルも3つぐらい声をかけてくれたりとか、バンド一年目の活動みたいなカンジで、新鮮だった。お客さんも少ないから、あーこんなバンドいたんや、っていう雰囲気の中で、苦しかったけど楽しかった。それまでの華やかな活動とのギャップを考えると、自分達でやってるんだっていう実感もあった。それから2007年には、海外ツアーにも行き始めるんですよね。うちらのやっていきたいカンジで、やっていこう!と。

——海外ツアーは、どういったツアーだったんですか?

Hisayo:日本のバンドを海外に連れて行ってくれるオーガナイザーがいて、日本在住のイギリス人が企画してくれて。うちらとべスパ☆くまメロと、Sonic Dragolgo(ロンドン在住の日本人のバンド)の音楽性の近い3バンドで、イギリス内を周るツアーで“It Came From Japan”っていうツアー。

Naoko:その3バンド+その土地の一バンドが出演して、ロンドン、ブライトン、エクセター、ボーンマス、リヴァプール、最後にロンドンがもう一回あって6日間。

Hisayo:そこでも、けっこう良い反応があった。

2007年 初めてのUKツアー。リヴァプールにて

Naoko:お客さんがMySpaceにアップしてた音源を、もう先に聴いてくれてて。初めて行く土地なのに、すでに曲を知ってるカンジで。自分達的にもおおーってなったよね(笑)。

Hisayo:海外の地元のイベンターって、すごくちゃんと宣伝しておいてくれるから、うちらが行ったらもう「歓迎!」ってカンジで。けっこうCDも売れたもんね。それで味をしめて、半年後にもう一回、うちらだけで行って。短いスパンで行ったから、ブライトンとかは前に来てくれた人がまた来てくれて、ちょっとpinsalocks、なんか人気者?!みたいなカンジになって(笑)。

——海外ツアーでの苦労は?

Naoko:アンプとか電圧が違うからねぇ。ボンってなったりするよね(笑)。

Hisayo:一回、壊されて音が出なくなっちゃって。変圧器の接続する順番を間違えないように、わたしは自分でちゃんとやってたのに、現地のスタッフの人が親切でやってくれて、ちがーう!あぁ壊れたぁ、みたいなことはあった…。

——他にライブをやる上で問題は無いんですか?

Hisayo:音圧が凄いよね、でも気持ち良いよね。

Naoko:気持ちいいけど、日本に帰ってきてスタジオに入ったら、あれ?って感じたよね。面白いなって思ったのは、うちら完全に子供に思われるから、お酒とか買えなかったり。ロンドンのけっこう老舗のロフトみたいなハコでは、ヘッドライナーだけ別の楽屋が用意されてて、そこはシャワーもついてて。その楽屋に、地元ではわりと有名なバンドと一緒で、そっちが先に入ってたんだけど、本当はヘッドライナーはワタシ達で。だからセキュリティーの人達が「はい、替わって」みたいに言ったら「なんだぁ?こんな10代みたいな小娘達が」みたいな顔をされた。それが、うちらが最後にライブやってる時に、その人達が観に来て、イエーイ!ってなってて、終わった後に「サイコーだったよ!」って言われて(笑)。

2007年 2度目のUKツアー。バーンスリーにて

Hisayo:あの時のライブ、すごく評価されてさ。翌日、関係者の人に呼び出されて、なんか食事させてくれたよね(笑)。で、2回目のツアーから日本に帰ってきたら、その海外ツアーが成功してるっていう噂を聞きつけた三浦俊一さんが一緒にやろうって。それで「KIMONO」レーベルに入るっていうのが決まった。

Naoko:で、同時に”Spoon Market”が始まるんだよね。

Hisayo:そこから、ガールズカルチャーイベントをやろう、って。

 

 

自分達が行きたいと思うイベントを自分達で作るしかない!

【Spoon Market】
※第一回 2007年9月@恵比寿みるく(Chocolat&Akito, noodles etc)、第二回 2008年9月@代官山 UNIT(HALCALI, Nirgilis etc)、第三回 2009年9月@笹塚ボウル(土岐麻子, FLIP-FLAP etc)で行われた、tokyo pinsalocks主催のガールズカルチャーイベント

Naoko:レーベルが決まると同時に手掛けたのが「Spoon Market」ですね。最初の開催は2007年の9月。pinsalocksと三軒茶屋HEAVEN'S DOORの堀さんとの企画。

Hisayo:けっこうすごく時間かけて作っているんですよ。初めてそういうイベントを作って。今でこそ、いろんなバンドが自分達が主催のフェスみたいなのをやってるけど、その時はまだそんなになくて。しかもバンドだけが出るイベントじゃなくて、アートやファッションも含めた、ファッション雑誌にも広告を打つようなイベント。「NYLON JAPAN」に載せてもらったり、渋谷のヴィジョンに広告出したり、けっこう宣伝もしてもらった。だからpinsalocksを知らない、ファッション系の人達もお客さんで来てくれた。

2008年 2度目の「Spoon Market DU/08S」@代官山UNIT
2009年 笹塚ボウル「Spoon Market SB/09S」

——「Spoon Market」のようなイベントをやろうと思ったのは?

Hisayo:自分達が行きたいって思うようなイベントを作りたかった。うちらは音楽ジャンルが変わって、何処にも当てはまるシーンが無かったから、どんなライブに出たらいいのかを考えてたら、じゃあ自分達が行きたいと思うイベントを自分達で作るしかない!っていうことで始めたんです。海外だとChicks on speedっていうバンドが「ガールズモンスター」っていうコンピを出していて、そのバンドがいろんな活動をしてるんですね。バンドもやるし、デザイナーでもあるし、アートや本も出してるし。CDを売る時には、カバンの中に本もあってCDも付いてて、ポスターもあって。そのすべてのアートワークを自分達でやっている凄い集団がいて。そんなイメージのイベントが日本でできたらいいなぁ、と。うちらだけだったら難しかったけど、堀さんとだったらできる。堀さんは大きなイベントをずっと手掛けてきた人だから、いろいろノウハウを伝授してもらいながら、一緒に作り上げた。

 

——なるほど。

Hisayo:でもそういうイベントがあったから、Naokoも手作りのアクセサリーを売る場所ができたしね。普通のライブ会場でいきなり売ったら、なんのこっちゃわからないけど、そういうアートやら、ごちゃごちゃになったところだったらイケるって。

Naoko:そういう話もあったけどさ、ワタシ達の音楽だけ、東京ピンサロックスっていう名前だけで「はい、ライブに来てください」「どういう音楽かを理解してください」っていうのは難しいのかな、って思っている時期でもあって。例えば衣装だけで「こういう音楽なのかな?」って推測することもあると思うんだけど、そういう見た目だったり、やってることだったりで、音楽そのもの以外でもワタシ達ってこういうバンドですっていうのを理解してもらえるモノになり得るのかな、っていうのも考えてた。ワタシ達には、こういう仲間達がいて、こういうことをやってるよ、音楽だけじゃなくてこういうモノも作っているよ、みたいなね。3人になった頃から、ステージ衣装とか、アー写やCDのジャケットに、自分達が持っている視覚的センスを全面に出して、すごくこだわり始めた。今までは『STAY HERE』とか、事務所が「この写真でいいんじゃない?」って言ったのをそのまま使ってて、いま見ると笑えるぐらい。もうちょっと可愛く撮れたんちゃう?!みたいな(笑)。そういうのも、自分達が「これ!」って納得できるモノでやり始めたのがその頃かなと思う。

Hisayo:確かに。あと、それが女子のリアルなんじゃないかと思ったよね。音楽だけじゃなくて、いろんなことに興味あってね。

 

——実際に「Spoon Market」の反響はどうでした?

Naoko:すごい良かったよね。最初は恵比寿みるくでやって、次は代官山ユニットでやって、最後は笹塚ボウルでやったんだよね。周りの雰囲気とかハコの大きさも、だんだんと盛り上がっていくような、ワクワク感があったよね。

Hisayo:みるくとかユニットもそうだけど、ライブハウスをライブハウスじゃない空間にするっていうのがすごく楽しくて。フロア内での場所の使い方とか、トイレとか隅々までカワイくするとか、本当に細かいところまでこだわった。

Naoko:ヘアカット部門もあって、いきなり髪の毛を切れたりもしたしね。あと、当時も有名だったかもしれないけど、いまや超有名な中目黒のポタジエっていう野菜のスイーツのお店がみるくの時に出してくれたり。笹塚ボウルの時はJUJUさんも観に来てくれてたしね。

Hisayo:笹塚ボウルも、今はけっこうライブイベントをやってるんだけど、その時はやった事なくて、うちらが初めてだったからノウハウが無くて、その土台をうちらで作ったよね。どうやったらボウリング場でライブをできるか、とか。

Naoko:レーンでライブをやってみたら、意外と音が良かった、とかね。

Hisayo:横でボーリングしながら、ね。

——ボーリングもできる状態でイベントを?!

Naoko:左右に2レーンずつ空いてて、真ん中がステージだったんで。気付いたら、観に来てた有名なバンドのメンバーと、普通のお客さんが一緒にボーリングやってたりとか。そういうのも面白かった。うちらピンサロックスは、朝4時半とかの出番で、でも準備は、昼の12時からやってるから、もう最後は心臓バクバクしてて(笑)。

Hisayo:そう!本当に大変だったねー。

Naoko:その時のライブ、今でもYOUTUBEに上がってるけど。今からライブをやると思えなかったもんね。もうライブの打ち上げが終わった後に、さぁライブをやるぞ、ぐらいのカンジだったよね(笑)。

Hisayo:それだけのイベントをすると、自分達の出番よりも、みんなが楽しんでくれてるかどうかを、最初からずっとイベント中も、気になってて。それを確認して、あ、うまく行ってるかな、とか。サブステージもあったし、ヘアカットスペースは階が違うところにあったからそっちも見に行ったり。あれはもう思い出しただけで…。

——大忙しですね。

Hisayo:そういうのを全部、堀さんと一緒に、めっちゃ時間をかけて企画して、面白いことをやろうって。だから音楽の内容を作ることも大事だけど、Spoon Marketはいろいろ見せ方も意識してやったね。

Naoko:本当、笹塚ボウルの時は半年から一年以上かけてね。堀さんもめっちゃくちゃこだわりがあるやん。いいねいいね!そうしよう!ってカンジじゃないんですよ。誰かが何か言うと「でもそれはさ…」みたいな。ミーティングも毎回、超長いし。相当、時間をかけてイベントをやった。だから、けっこうやりきった感があったよね(笑)。

Hisayo:もうこれ以上のものはできない!って思ったぐらい費やしたから。もう満足したっていうか。大変やったけど、来た人、めっちゃ楽しんでくれたし。

Naoko:でもさ、今振り返っても、あのイベントに行きたかったよね!

Hisayo:行きたかった!

Naoko:お客さんとして。もしくは出演者として、呼ばれたかったね(笑)。

 


海外ツアーや主催イベントを通じて、強くなったカンジがする。

Naoko:2008年に『リタ・プラネット』をリリース。

Hisayo:日本ではSpoon Marketをやって、CDを出して、海外ツアーに行く、っていう活動がそこまでの流れだよね。3年ぐらいの間に、3回UKに行って、1回アメリカに行ったもんね。

2009年 UKツアー Norichにてラジオ番組のライブレコーディング

Naoko:2007〜2009年までは、そんなカンジだね。

 

——海外ツアーを重ねるごとに、どんな変化が?

Naoko:どの回がどの回やったっけ?あはは(笑)。

Hisayo:なんか一回一回、違うよね。ライブレコーディングとかもしたよね。

Naoko:海外ツアー先でラジオ番組に出るっていうので、演奏して、しゃべって、また演奏してってカンジだったんですけど、その演奏部分でライブレコーディングみたいなのをやったのね。そのエンジニアの腕がめっちゃ凄くて、一発録りなのにすっごい音、よかったよね。

Hisayo:うん。良い経験した。海外は空気も違うから。

Naoko:向こうに住んでる人も、空気で音が変わるから、自分の音楽はUKでやるべきだからUKでやってる、って言ってた人もいた。うちらはそこまでではないけどね。関係ないけど、日本人の時間の正確さはすごく感じたよね。もう海外はみんなめっちゃくちゃだから。運転手が「迎えに来るよ」って言った時間の2時間後に来たりとか。それでライブハウスの入り時間が2時間遅れたから、もうオープンの時間なのに「いいよいいよ、リハやろう」みたいな。で、ライブのスタートが夜10時になって。もうありえへん!って(笑)。でも、お客さんいるよ?!みたいな(笑)。あと、リハの最後の曲をやって「パソコンの音をちょっとだけ上げといてください」って頼んだら、いかつい女性エンジニアが「OK!」って言って、本番になったら、もうパソコンの音しか聞こえないほど爆音で!(笑)なんじゃこりゃ!みたいな。びっくりしたよね(笑)。

Hisayo:でも、海外では何かしらトラブルが起きる、って思ってるから。日本だとカッチリ用意されてることが、海外では普通にアンプが無いとか。もうなんか、どうとでもなるって思うんですよね。「海外ツアーのことを思ったら、これはいけるでしょう」みたいなことを言えるぐらい、鍛えられたっていうか。

2008年 USツアー "Anime Boston" tokyo pinsalocksステージ

Naoko:だから日本って、アベレージが高いんだろうね。海外に行けば、すっごい人に出会えることもあれば、それは大学のサークルのバンドですか?みたいな人達がヘッドライナーとかもあったやん。日本はけっこうボトムが高いっていうか。真面目ってカンジ。でもそういう経験をして、日本人であるワタシ達ってこうだよね、っていうのを改めて感じた。なんとなく日本人って欧米に対する劣等感があると思うけど、海外に行ったら逆に日本ってカッコいいとか、オシャレってすごく言われたから、日本人ももうちょっと自信を持った方がいいな、ってすごく思って。それを歌った曲が「着物ジャポネ」なんだよね。

 

——活動の幅が大きく広がりましたね。

Naoko:4人時代には無い、自分達をみつめるっていうか、外から見た自分達はこうっていうのをすごく感じる時代じゃない?3人時代ってね。

Hisayo:強くなったカンジがする。

Naoko:強くなったよね。けっこういい感じでライブができる場所もあれば、最終的には結果良かったんだけど、始まるまで「これ、お客さん来るんかな?」ってカンジのハコもあったり。あと目の前にお客さんいるような、すっごく近い客席のハコもあったし。80〜90歳ぐらいのおじいちゃんみたいなお客さんがフッと入ってきたりする環境のハコもあったし。

Hisayo:でもそういう人が楽しんでるんだよね。おじいちゃんもちゃんと聞いて、CD買ってくれるから(笑)。

Naoko:Tシャツ買って「サインくれるかなぁ、息子のために」とか(笑)。

Hisayo:フラッと来た人が観て楽しんでくれるの、いいなぁと思う。

Naoko:あと、音楽をいくつになっても楽しんでるし、そしてアーティストを認めているカンジをすっごく感じたから、そこでうちらも音楽を続けていくっていうか、自分達の“ライフワーク”って言ったらあれだけど、できるカタチで自分達が楽しくやるっていうことを選択していくきっかけにもなったかもなぁって。日本にいるとどうしても「え?まだ音楽やってるの?!」みたいな(苦笑)。世間的にはね。

 

——あるかもしれないですね。

Naoko:知り合いのバンドも「40才にもなって音楽やってるのか」って実家帰ると言われるっていうけど、海外に行くとそれは「凄い!」ってなるから。たぶん文化の違いはあるのかなぁって。バンド文化っていうのが、日本ってやっぱり少ないのかなって気がする。まぁUKも、長くいればそういうのも見えてくるのかもしれないけど。ワタシ達が数週間いて感じたことは、その後のうちらの活動にも影響が及ぼしてるかもしれないね。

 

——イベントにしても海外ツアーにしても、すごくパワーを感じます。

Naoko:自分達だけで動いてたから、もちろん三浦さんにも相談してるけど、やってみよう、やってみようって、すごくフットワーク軽いカンジでやってたかもね。

Hisayo:うちらがやりたいことをやりたい!楽しいと思えることをやりたい!っていう気持ちがすっごく強いわけですよ。それを探しに行ってたカンジはあるんじゃないかな。バンドの活動ってこういう風にしなきゃいけない、っていうのに乗っかっていくと、たぶんつまらないような気がする。自分達で道を切り開くカンジだよね。

Naoko:やりたいなって思っても、それをどう行動に移すかわからない人が多いのかな。ヒサヨもけっこうプランをビシバシ立てられる人だし、誰かにこれをやってもらおうって考えたり頼んだりするのも得意。ワタシもワタシで、アパレルの仕事でリーダーをやってて人に動いてもらうのもよくやってるし、お店で内装もやってるから、イベントの内装が得意だったりとか、わりと音楽以外でやることが、意外と自分達でできちゃうっていうのはあるんじゃない?

Hisayo:苦手な人はいますからね。

2008年 自主イベント「KIMONO CLUB」にて

 

——有能なアーティストさん、なんですね。

Naoko&Hisayo:いやいやいや!(笑)

Naoko:いやでもそれね、昔、周りにいた「わたしは歌しか歌えません」とか「歌をとったら生きていけません」みたいな不器用なミュージシャンを見た時に、すごく羨ましい時期があった。「俺は歌しかやらん」とか、そんなんいいなと思ったけど、結局けっこう器用なんですよね、自分は。何でもやっちゃうし、やれないと思ってたことでもやれることも多くて、失敗しても出来るようになっていくモノも多くて。例えば、ヒサヨも最初は曲を作る人じゃなかったけど、やってくうちに曲を作るようになったし。そういうことは二人とも、お互いを見て刺激になってる部分もあって。結局、不器用な「音楽しかできません!あとよろしくお願いします」っていうバンドではなくて、もう自分達でいろいろできちゃうバンドでいいか、みたいな(笑)。

Hisayo:そうかもね。

 

 

”他にもいろんなことをやってるワタシ達"を、公表した。

Naoko:そしてその後が、2010年リリースの『くるくるとぐるぐる』。

Hisayo:ここが結成10周年になるんですよね。この時にそれまでと違うことがあって。『くるくるとぐるぐる』をリリースした時に、キャッチコピーが“恋と仕事とニューウェーヴ”って、三浦さんが考えてくれたんですけど、「仕事」っていうのを入れたんです。それまでは、ナオコのアパレルの仕事のこととか言ってなかった。

Naoko:知ってる人は知ってたんですけど、でも基本的に音楽のシーンでは音楽のワタシ、歌っているナオコしか見せてなくて。

Hisayo:そこで初めてナオコの生き方というか、“ワタシこんなことをやってます”っていう面を初めて公表して。バイヤーとしてしょっちゅう海外に行ってますとか、お店にも立ってます、っていうのを出さないと、つじつまが合わない。これから先、どうやって見せていこうかっていうところで、ナオコのそういう面も見せていけばいいんじゃない?って。

Naoko:三浦さんがそういう部分を開けてくれたっていうか。

Hisayo:ワタシだったら、他でバンドやってても外から見えるし、それをやりながらpinsalocksをやってるって出せるんですけども。

Naoko:三浦さんが「(ナオコも)出しちゃえば」って言ってくれて。「あ、いいんだ」って思って。ミュージシャンにも2パターンいて、そのまんまをステージで出す人と、ステージに立った瞬間、ガッて変わる人がいるじゃないですか。ワタシは後者のタイプじゃなくて、もう日常をそのままポンとステージまで持って行くタイプだから、隠した部分というか、言わない部分があるのが自分的にもモヤモヤしてた。でもこれでもう出せる、しかも自分も女子として、素敵だなとか、やりたいなとか思うことをやっているのに、見せたいなって思うことをやってるわけだから、出せるようになったことで、わたしはスッキリして。あぁすべてのわたしを見せていいのね、と。

——公表した部分っていうのは?

Naokoプロデュースのヘッドフォン

Naoko:ハンドメイドのブランドを個人的に作ってますよ、っていうのは見せてたけど、アパレルでバリバリにブランドを手掛けてて、例えばバイヤーをやったり、デザインをやったり、リーダーで会社の上に立ってやってますよ、とかは出してなかった。そういうのも含めて出しちゃおうってなったから、すごいスッキリした。自分のいいところをもっと出せるんじゃないかって思った。で、ヒサヨもいくつかバンドをすることになって。ん?フラッドはいつなんやろ?

Hisayo:フラッド(a flood of circle)加入は、2010年の後半だね。だから『くるくる〜』と同じタイミング。

Naoko:ヒサヨのベーシストとして活躍する場が、サポート・ミュージシャンではなく、バンドのメンバーとして他でもやるってなって、わたしにも別の場所でのワタシっていうのがある。これが例えば、ヒサヨだけがpinsalocksしかなくて、わたしには他に色んな場所があるとか、その逆とか、ってなってくると、pinsalocksへの想いの強さに差が出てきてしまって、バランスが取れなくなっちゃう。ワタシはもっとこうしたいのに!って、それしかないとなっちゃうんだけど、ちょうど上手くバランスが取れたんだよね、そこで。

Hisayo:たまたま、この時期でよかったと思う。ナオコの他の活動もオープンになったことによって、ワタシ達の関係性が外からもそうやって見てもらえるから、pinsalocksしかない人達がやっているようには見せないように、もうオープンで。他にもいろんなことをやってるワタシ達がpinsalocksをやります!ってカンジにした。

Naoko:レイコも、ケラ&ザ・シンセサイザーズとかやってたしね。ま、そういう器用なワタシ達でいいやってことになって、他のバンドとか、他のこともやってるワタシ達が、pinsalocksの時には「これをやりたい!」っていうものにしたいと。

Hisayo:その分、バンドの中の関係性もよくなってきたし。表現の発散が他にもあるから、pinsalocksではこれをやればいい、って。pinsalocksにすべての表現を持ってくると、ワタシは本当はこんなことをやりたくない、もっとこういうことをしたいのに、ってぶつかったりするけど、すごく譲れるっていうか。ここでは自分のこの部分を出そう、っていう風になれる。

Naoko:変な意味じゃなくてね。これでもしょうがない、っていう意味じゃなくて。曲を作っている時でも、想いを詰め込み過ぎてワーってやると、わけわかんなくなっちゃう時があるけど、「これ良いよね」って言ったら「あ、良いね」って素直に言えるようになって、ゴールにすぐに到達しやすくなった、そんなカンジだよね。それまでって…

Hisayo:こねくりまわしてた(笑)。

Naoko:古い曲をアレンジしてても、わけわかんなくなってたのが、スッスッって曲も出来るようになっていった。もうその頃には、ヒサヨがデモを作ってきたときには、ほとんど曲が出来上がっていて。私達の曲って詞先が多くて、歌詞が先にあるので、ヒサヨから作られる曲、レイコから作られる曲は、もうほとんど完成形で。それぞれのパートを自分なりに少しアレンジしたら、もうレコーディングできるってカンジだったから。ほとんどスタジオで合わせることなく、レコーディングしちゃってたよね。

——詞先になったのはいつからですか?

Naoko:『rhythm channel』からかな。やっぱりそこがうちらの転換期で、ここでだいぶ変わったよね。で、この時期からさらに曲作りがスムーズになっていった。まぁもちろん、産みの苦しみが無いわけではないんですけど、例えばその時だったっら“恋と仕事とニューウェーヴ”っていうキーワードだったり、次に何か作る時には、こういうことで行こうっていう方向性ができれば、それに向かってみんながスムーズに行けるカンジ。迷わず行ける。っていうのはすごくできるようになったかな、って思います。

Hisayo:良いカンジに行きつつありましたね、『くるくるとぐるぐる』から『ハレルヤガールズ』まで。

 

ミュージシャンとして、自分達にできることは何だろう?

Naoko:で、その時に地震があったね。東日本大震災。そこで一回、Spoon Marketもチャリティーイベントとしてやろうっていうことで、復活しましたね。2011年の11月に新宿・風林会館で。

Hisayo:その地震を受けて、強いメッセージを込めたCDを作ろうって『ハレルヤガールズ』を作った。元気になろうって。

「Spoon Market SF/11N」新宿・風林会館でのチャリティーフリマの様子

——ちなみに地震の時、お二人はどこに?

Hisayo:ライブの日だったの、ヘブンズ(三軒茶屋HEAVEN'S DOOR)の。ちょうどリハの最中で「マネキン」って曲をやってた時で、みんなが地震だーって言って。うちら演奏してたら意外に揺れてるのに気付かなくて。あ、みんな上に出ていく、そうだよ、避難しなきゃ、ってようやくベースを置いて。

Naoko:そうしたら、もうグラングランで。でも大丈夫だったね。ヘブンズ古いしさ、後から考えたらちょっとコワイよね(笑)。

Hisayo:あの日は交通機関が止まっちゃったから、ライブも中止になって。うちらずっとヘブンズで過ごしたもんね、帰れなくて。すごい覚えてるわー、あの日の夜。電車が動き出したけど、最寄駅までいかないから、すごい距離歩いたもんね、二人でね。

——その時の影響もあり。

Naoko:うん。ミュージシャン誰しも、自分で曲を作ってたら、何かしらそれっぽい曲って絶対あったと思うんだけど、ワタシたちの『くるくるとぐるぐる』のタイトル曲が、もうまさに♪昨日まであったものが、ふいに消えることがあるよね、みたいなことを言ってる曲だったり。あとそういう時に「自分達にできることは何だろう?」っていうのをすごく考えたよね。ミュージシャンとして。で、やれることをやろう、ってことしかなかったんですけど。自粛、自粛っていう風潮の中で、でもそれだとワタシ達がやる場所ってライブハウスしかないのに、そこが潰れてしまったら、それは違うって思ったし。

「Spoon Market SF/11N」でのtokyo pinsalocksステージ

Hisayo:わたしは高校生の時に神戸で被災してるから、その時のことを思ったら、ワタシは元気な人は動いてた方が絶対に良いって、その時からすごく思ってたから。神戸にアーティストが来てくれるのが、すごくうれしかったし、それなのに実際には動ける人が自粛っていって止まってると、本当に動けない人からしたら、動いてよ!って思う気持ちがあったから。だから、こっちは動かなきゃってすごく思った。

——自粛ムードは後々まで大きかったですね。

Hisayo:周りでは自粛して、キャンセルしてるライブとかあったけど、うちら3月末にライブがあって、それはちゃんとやる方向になって。世間ではすっごく節電してたけど、おうちで節電してるんだったら、家の電気を消してライブハウスに来い!一か所に集まった方が絶対にいいんだから!って思ってたし。で、うちらとしてやったことは、…これはワタシの考え方ですけど、ミュージシャンが被災地に行ったり、被災した人に向けたメッセージソングを作ったりして、そういう影響力があるのはある程度の知名度がある人だけだと思っていて。うちらぐらいのミュージシャンだと自己満足というか、自分の気持ちを満たすためにしかならないから、そういうことよりかは、うちらは元気な地方に行って、お金を儲けてそれを寄付しようって。そう思ったから…北海道に行ったんだよね(笑)。北海道ツアーでチャリティーTシャツを売って、みたいな。うちらにできることはこれや、って思ってやった。ナオコのお店もね、チャリティーTシャツを作って売ってたし。

Naoko:うん。わたしもね、チャリティーTシャツ、相当売ったもん。1000枚ぐらい売ったかなぁ。やれることをやろうと思って。うちの社長が外国人なんで、すぐ行動に移せ!みたいなカンジで。一週間後ぐらいにはもう作ってて。それでけっこういっぱい寄付ができた。

2011年 チャリティーTシャツ「FIGHTER WE ARE!」

——そして、2012年は。

Naoko:『ハレルヤガールズ』を出して。

Hisayo:そのリリースツアー直後に、レイコが体調を崩してしまい、お休みに入ります。ここでまた活動が…tokyo pinsalocksの第二幕が終わります…(笑)。

——tokyo pinsalocks、第二幕終了…。

Hisayo:あー、お休みに入るんだーって…。もう当分、レイコが戻ってこれないっていうのはうちらわかってたから。どうしようか、って。

Naoko:2012年4月に「ハレルヤガールズコレクション」ツアーを7本やって。ツアー中も調子悪そうだったもんね、ずっとね。

Hisayo:でもこのツアーを、とりあえず終わりまでやるって言って。でも、終わった後に、もう決まってるツアーはもう無理だ、ということになって。それ以降のライブも決まってたし、今後どうしよう?と。ワタシはその時、レイコが戻ってこなくて二人になっても…まぁワタシはやるつもりだったんですけど、ナオコ的にはどうなのかなって。例えば、レイコが戻ってくるまで活動休止して待つっていう選択肢もあるし、違う人を入れて継続していくっていうこともあるだろうし、どうするかなーって思ってた。で、ナオコに話を振ったときに、ナオコが即答で「やろうよ、レイコがいなくても出来ることをやろうよ」っていう感じだったから「ヨシ!」と思った。

【インタビュー:下村祥子】


【tokyo pinsalocks 第三期 に続く】

 

 

 
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